私は主夫として、欧州の都市部に住んでいます。これまで住んだことのあるいわゆる大都市と比べるとだいぶ落ち着いた都市ですが、英語がしっかり通じるところなので、新型コロナの影響やたまにある日本との生活習慣の違いを除けば、基本的には不自由なく過ごしています。
先日、買い物帰りに1人で歩いていたところ、30代か40代くらいでしょうか、白人のお兄さん(おっちゃん?)にツバをかけられるという初めての経験をしました。大学生になるまで海外に出たこともない田舎者でしたが、留学1年間、仕事で3年4か月間、その後主夫として4か月間ほど海外生活をしており、欧州には1年と8か月間ほど住んでいます。これは幸運な部類なのかもしれませんが、記憶している限り、道を歩いていてツバをかけられたのは初めてです。以前はパリに住んでいて、危ない目には何度も逢いましたし、というか実際結構な被害にあったのですが、それでもツバをかけられたことはなかったです。
状況としては ゆるい坂になっている広場を上る方向に歩いていたところ、子ども用の小さなキックスクーターに乗った男性が坂の上から結構なスピードで降りてきて、通りすがりにツバをかけられたという感じです。ツバをかけられたのは、私が東アジアの顔をしているからかもしれませんし、コロナの影響で外国人の顔をしている人全般に敵意があったのかもしれませんし、または私が通り道の邪魔だったのかもしれませんし、もしかすると黒い服を着た人にはツバをかけて回る性癖の方なのかもしれません。
僕がかなり驚いているのは、案外自分がそのことに怒りを覚えていない(気がする)からです。僕は、まぁ、粗野か柔和かで言えば柔和だと言われることが多いですが、とはいえ少なくともツバをかけられてニコニコしていられるほど人間ができてはいないはず…。ではどう思ったかというと、まずそのスクーター安定してなさ過ぎて転びそうで心配というのが最初。ツバをかけられた瞬間にちょっとニヤッと笑いそうになってしまって、それから数秒して出てきた哀れみ。そして最後に自分の感情について考えてみてたどり着いた、悲しさと自分への諦念です。
まず、キックスクーター、めっちゃガタガタ言ってました。今にもこけそうだったので、「え、大丈夫!?」というのが第一印象。明らかに子ども用なんだもん…。そしてツバをかけられた直後の、謎のニヤッとしそうになる感情と、「あっ…」という反射的な哀れみ。というのもその男性、決してピシッとした格好ではなくて、髭も髪もぐちゃぐちゃだったんですよね。付け加えると、その一本隣の道には薬物中毒者の更生施設があり、施設の目の前が中毒者のたまり場なんですよ。(街で一番大きな駅の目の前なんですけどね…笑) なかなか想像しにくいかもしれませんが、一応めっちゃ物価の高いなかなかハイソな都市なんです。我が家の稼ぎ頭は国際機関でがっつり稼いでくれているので、良い暮らしをさせてもらっています。しかし件の男性は、残念ながらそういった物価の中で贅沢している社会層には見えなかったというのが、正直なところです。私は、自分がツバをかけられた際の反応が哀れみだったのは大変意外でした。そして、遅れて湧いてくる怒り!みたいなものもなかった(気がする)のです。
その後家まで歩きながら少し考えてみて、最終的に私は、自分に悲しくなったというか、なんとも残念な気持ちになり、すぐに元気にはなりましたが、正直少々落ち込みました。想像してみると、例えばスーツをびしっと着た、如何にも人生勝ち組です!みたいな人にツバをかけられたら、たぶん腸が煮えくり返ると思うのです。想像しただけで腹立たしい。汚いし…。さすがにそれはねぇ…。
今回、反射的な反応が哀れみだったのは、自分の根底にある差別意識のようなものを露骨に表してしまったのだと思います。ほんの数秒ですよ。私が男性に気が付いてから視界から消えるまで、10秒もなかった。5秒もなかったかもしれない。その一瞬で、私は彼を「自分より下」だと認識して、同じ土俵に立って目線を合わせて怒ることをせず、同情したのでした。そもそも彼はそんな恰好をしたIT企業のCEOでべらぼうな金持ちかもしれないのに、人を一瞬の見た目で判断している。さらにより根源的な問題として、僕はきっと、彼を同じレベルの人間だと、少なくとも咄嗟には、思っていなかったのでしょう。誰かに危害を加えられたというよりも、動物園を歩いていてチンパンジーが投げたごみに自分の不注意で当たってしまった、という方に近い感情を抱いたのだと思います。それでもチンパンジーや飼育員に怒る人もいらっしゃると思いますが、たぶん私は「なにやってんだ笑」と笑った後に汚れを落とし、動物園を引き続き楽しむ気がします。そんな気持ちに、近かったのでした。
これは、結構ひどいことだなと思ったのです。落ち込みました。そして、まさに金持ち外国人のそうした反応、そして根底にある差別意識こそが、究極的には彼の行動を生んでいるのだと頭ではわかっていながら、それでも咄嗟のリアクションは、「何やってんだ自分笑」という笑いと、男性への哀れみ。わかっていたつもりですが、これは根深い。
もちろん、そんな綺麗な話かよという気もします。かつてどっかで読んだ文章に、「嫌だとかむかつくとかいう汚い自分の感情を、悲しいとか残念だとか綺麗な感情のふりをさせてごまかすな」という話があったと記憶しているのですが、本当にその通りで、もしかすると、ツバをかけられたことで傷ついたやっすいやっすい自分のプライドを守るために、精神的有意に立とうとしているのかもしれません。これは恥ずかしいやつだ。そもそも、怒ったとしても立ち向かうような筋力も胆力もないですしね…。それに少なくとも、こんな風にブログで書いている時点で、お前めっちゃ意識してるやん笑、効いてる効いてる笑、みたいな風にも読めますよね。
そういった意味では自分でもわからないのですが、でも咄嗟に笑いそうになってしまったり、あの人どんな人なんだろう、大丈夫かな、ちゃんと日々生活できているかなとか思ってしまったというのは、それはそれで事実なのでした。それが欺瞞だと指さされると反論のしようもないという話です。
僕は彼を、軽蔑さえしなかった。一足飛びに仲良くなることができるでしょうか。それとも、一度は彼を憎まないと、同じ土俵にさえ立てないのでしょうか。
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